実存メモ09
この自由は、大きな責任と恐怖を伴う
→ そのため、人々はしばしば「自由からの逃走」を試みる。
→ 独裁者や宗教の神を求めるのも、この「自由の重荷」を取り除いてもらうためかもしれない。
エーリッヒ・フロム(1941年):「服従への欲望(lust for submission)」
→ 人々は、自由の恐怖から逃れるために、誰かに従おうとする。
楽になりたいのである。
私たちが大切にしている信念や価値観も、実は「絶対的なものではない」と知っている。盲目な宗教でない限りは、限界を知っているし、そこにある、「あたかも真実であるかのように集団で長年にわたって信じて安心する」というやや安易な解決が現実的な妥協点なのだと知っている。
原始集団で、何かのコツを心得ている人がいて、例えば、狩猟が上手だったとして、その人についていけば、食料が得られるとなれば、その人に頼りたいと思うだろう。
自分で狩猟のコツを学ぶよりは、その人を讃え、その見返りとして、食料をもらった方が楽で確実ではないだろうか。自分でやって失敗するよりは、自由を手放して、小さな成功を手に入れたほうがよいと考えるのも、無理はない。
食料と同じことが、人生の意味や目的についてもいえるし、世界観についてもいえる。自分で考えるよりも、誰かに考えてもらって、結果を信じる大勢の方に属していたいのだ。自由に責任が伴うとなれば、ますます、誰かに任せてしまいたくなる。
群生的な生き物として、そのような道もある。