既婚女性の性別役割意識と社会階層:日本と米国の共通性と異質性について
山口一男
本稿は潜在クラス分析と関連する回帰分析を用いて性別役割態度の潜在ク
ラスと社会階層との関連について日本および米国の既婚女性を分析し結果を
比較する。潜在クラスについては日本では「性別役割支持型」,「性的平等支
持・職業志向型」,「性的平等支持・非職業志向型」の3クラス,米国では
「性別役割支持・両立否定型」,「性別役割支持・両立肯定型」,「性的平等支持
型」の3クラスが存在する事を示し,潜在クラスの割合が本人,夫,父親の
階層属性にどう関連しているかを明らかにする。また「性別役割支持型」 対
「性的平等支持型」の割合比へのそれらの属性の影響を日米で比較する。最後
に分析結果の理論的意味と今後の展望を議論する。
1 序
本稿は性別役割態度と社会階層との関連について日本および米国の既婚女性の
意識を分析する。性別役割態度には例えば「家族に対して夫は主に経済的責任が
あり妻は主に家事育児に責任がある」や「既婚女性の家庭の外での就業は母子関
係にとってマイナスとなる」などの意見への賛否の態度など,家族内での役割や
家庭と仕事の関連についての性別役割態度がある。これとは別に例えば「女性も
男性と全く同等の雇用機会や昇進機会を与えられるべきである」や「管理職には
女性より男性がむいている」などの意見への賛否の態度など,職業・就業機会や
職場での性別役割態度がある。またその他一般社会における性別役割態度もある。
本稿では家族内での役割や家庭と仕事の関連についての性別役割意識を分析する。
性別役割意識は従来「性的平等対不平等」や「伝統対非伝統」といった次元と
の関連で議論されてきた。性別役割分業が女性にとって個人の経済的収入や社会
的地位や権力について,家庭の内外で男性より下位におかれる結果を意味したか
らである。従って社会階層化を家族ではなく個人を単位として見る時,性的不平
等の側面として性別役割意識や役割分業は重要となる。性別役割分業は即性的不
公平を意味せず家族における夫婦の役割の補完性を維持する「役割分担はあるが
対等で不公平でない分業」は論理的には可能である。しかし過去から現在までの
夫婦の役割分業については伝統的な妻の劣位からより平等な夫婦関係へとの変化
の流れがあり,性別役割態度もその移行との関係の観点で分析されてきた。具体
的には性別役割分業意識の米国での変化について,ソーントン(Thornton,1989)
は「調査は1960年代に比べて1980年代では男女とも,妻が自分の職業キャリアを
持つことが望ましい,就業女性は非就業女性と同様良き母親となれる,夫は家事
育児をもっとすべきである,重要な家族決定には妻も夫と同様の影響力を持つべ
きである,などの意見に賛成するものが増加した(筆者訳)」と述べている。これ
は夫妻が全く同じ役割を持つという平等化に向かっての歴史的態度変化であるが,
ベッカー(Becker,1981)が指摘するように,夫婦間の補完性が失われ代替性が
増してくるということや,家族がより個人化することをも意味していた
(Yamaguchi,1998)。本稿ではこういった平等化への流れが日本と米国で共に起
こっているという事実を前提として,既婚の女性の性別役割態度が本人の世代,
就業および階層の属性と,また夫と父親の階層属性と,どう関連しているかにつ
いて,日本および米国のデータを分析する。
性別役割態度が実際の夫婦の役割分業に強く関連していることはよく知られて
いる(例えばShelton and John(1996)のレビュウー論文を参照)が,性別役割態
度自体については多くは伝統的対非伝統的という一次元的尺度で計られ,それ以
上に意識の潜在構造に個人や家族の属性がどう関係するかを分析する研究はあま
りなかった。本稿では日本と米国の既婚女性について,性別役割意識の潜在クラ
スとそれと関連する属性について分析するが,以下の2点において制約がある。
第一に米国と日本の女性のデータを分析し比較も行なうが,厳密な比較は出来な
いことである。性別役割態度について日本での調査項目と一対一に対応する米国
データはなく,その結果調査項目が異なり,分析結果は用いた変数に依存するの
で直接的比較は出来ないのである。ただしどちらの国でも「伝統的性別役割支持」
対「非伝統的性的平等支持」という次元が態度に潜在するので,例えば教育や収
入がその潜在次元にどの程度影響するかを日米共に見,その結果を比較すること
はできる。しかし予測変数も完全に対応はしない。しがって本稿では日米比較に
ついて二国のデータを並列分析し性別役割意識の規定要因の共通性と特殊性につ
いて推測出来る範囲で議論をすることにする。第二の制約はクロスセクションの
データの分析なので,変数問の関連の因果関係については特定出来ないことであ
る。親の職業や本人の教育や生年世代については,調査時に観察された性別役割
意識に影響されることは無く(あるいは無視でき)影響の方向について一方のみ
を仮定しても問題はないが,本人の従業上の地位,収入,職業などとの関連につ
いては,それらの属性が社会化効果として性別役割意識に与える影響と性別役割
意識がそれらの属性の選択に与える影響との二方向の影響が考えられ,どちらの
影響が主なのか今回の分析では判定出来ない。
本稿では性別役割態度の分析に潜在クラス分析を用いる。通常ある潜在変数を
複数の観察される変数で代表する時因子分析が多用される。しかし因子分析は変
数のグループ化を目的とするので,例えばある変数群について特定の反応をする
者のみ(例えば伝統的性別役割態度をとる者のみ)他の変数での反応に分岐が生
ずるといった特徴は捕えにくい。一方潜在クラス分析は反応パターンの類型化を
試みるので,例えば伝統的役割態度をとる者の中に異質性があればそれを異なっ
た反応パターンとして発見でき,そのメリットは本稿で明らかにされる。以下の
分析ではある一定の理論的仮説を検定するのではなく,分析結果の理論的意味合
いを議論するという帰納法をとる。
6 議論と考察
以下では分析結果が日本社会に意味することについて重要と思われる4点につ
いて議論したい。まず第一に性別役割意識について教育の効果が日本において米
国よりはるかに小さいということの意味についてである。教育はウェーバ
(Weber,[1922]1946)以来階層化論においては二つの異なる機能が問題にされ
てきた。一つは市場特に労働市場での機会を通じての「階級」への影響であり,
二つ目は一定の価値とその評価基準や合理的思考を個人にもたらす社会化を通じ
ての「ステイタス」への影響である。より一般的に教育,特に高等教育,は単に
知識や技術を与えるだけでなく,以下の3種のものを与えると考えられる。一つ
は合理性や知的柔軟性などの「知性」を育むこと。二つ目は自由,平等,個人の
人権などを重んじる「近代的道徳」を育むこと。三つめはブルデュー(Bourdieu,
1984)が問題にしたような音楽・美術,衣服・食料,など広範な文化についての
審美眼,評価力,表現力などを育むこと。米国社会は階級社会であってもフラン
スの様なステイタス社会の要素は希薄なので,3番目の文化資本の育成については
疑問があるが,教育が知識だけでけでなく知性と近代的道徳を育むことは疑いが
ない。教育の各段階が進む毎に性的平等支持者の割合が確実に大きく増加するの
は男女の平等が一つの近代的道徳であるとすればいわば自然の結果と見える。し
かしそれが当然であるならば逆に日本の戦後教育は男女の平等に限らず近代的道
徳を育むことにはあまり貢献しなかったことが問題になるのではないか。もちろ
ん戦後教育は民主主義や男女の平等を掲げてはいた。しかしそれは日常生活の意
識に内面化されるような具体的なものであったであろうか?近代的道徳を育むこ
と,それは教育というものの根幹にふれる問題である以上,今後の教育を考える
上でもう一度根本的に考えて見る価値のあることではないかと思う。しかし教育
だけを問題にするのは一面的であろう。それは以下の点から明らかである。
第二の点は「性的平等支持・非職業志向型」と呼んだ潜在クラスの特徴とその
日本での戦後の歴史的増加の意味についてである。絶対数では最少でもこの潜在
クラスの増加率が職業志向型のそれを上回ることは見た通りである。性的平等支
持型内でこの「非職業志向型」を「職業志向型」と比べて特徴づけるものはまず
第一に従業上の地位であり,フルタイム雇用者の割合が少なく他の従業上の地位
の割合が皆高いことであり,また本人が現職での昇進可能性について「無し」と
考える者の割合の大きい事である。さらには「非職業志向型」は「職業志向型」
に比べ大卒が少なく,父親の職業についてはブルーカラー,特に半熟練・非熟練
であることが多く,逆に専門技術職や事務職であることが少ない。即ち「性的平
等支持」であっても潜在クラス3の女性たちが「女性も自分の職業生活を重視し
た生き方をすべき」に強く反対する理由は,第一に彼女たちがフルタイム雇用者
で有ることが非常に少なく,またフルタイム雇用者であっても昇進可能性のある
様な職ではなく,生きがいに出来ない職についていることである。第二にブルー
カラー家族に育ったり,大卒が少ないことに見られる様に,家族の経済社会的地
位の背景が比較的低いことが原因と考えられる。注意を要するのはこれは彼女た
ちの現在の経済的社会的地位が比較的低いことを意味しないことである。実際本
人と夫の収入も本人と夫の職業の社会経済的地位も「非職業志向型」対「職業志
向型」の割合比に有意な影響を与えない。本稿では省いたが未婚者を含む関連分
析(山口,1998)ではこの「非職業志向型」対「職業志向型」の対比は「センス
のよい趣味や振る舞いに心掛けている」,「将来のために節約するよりも,今の人
生を楽しむ」,「人との付き合いや人間関係を幅広くしようとしている」,「仕事・
家庭のほかに,ライフワークや趣味を持っている」といったライフスタイル変数
にいずれも有意に負の関係を持つことが明らかにされている。つまり「職業志向
型」に比べ「非職業支持型」の女性は仕事にも主婦業にも価値をおかないだけで
なく,趣味にも巾広い人間関係にも価値をおかないという,いわば「無い無いづ
くし」の価値観とライフスタイル的特徴を持っている。この事はウェーバ
(Weber,[1922]1946)の階級(class)とステイタス集団(statusgroup)の区別
を用いると,彼女たちが本人と夫の収入と職業からは階級的特徴を持たない一方,
価値観,ライフスタイル,教育や家族の経済社会的地位の背景からは一つのステ
イタス集団的特徴を持つ事を意味する。同様の理由で逆に上記のライフスタイル
変数に皆正の関係を持ち,教育や家族の経済社会的地位の背景でも恵まれた「性
的平等支持・職業志向型」の女性たちも一つのステイタス集団であり,彼女たち
のステイタスは「非職業志向型」のそれより明らかに高い。
さて「性的平等支持型」の中で戦後「非職業志向型」が「職業志向型」以上に
増えて来たというのは日本における戦後社会の矛盾の産物の様に思える。つまり
一方で特に戦後の公立の男女共学のもとでの教育を通して男女の平等を支持する
女性が父親の社会経済的地位のいかんによらず産み出されてきたのに対し,他方
で職場や家庭が已然として男女の不平等や男女の機会の不平等を強く維持し, そ
の矛盾が特に比較的社会経済的に家族的背景に恵まれず,また自分自身生きがい
とするに足る職を持つに至らなかった女性たちに集約的に現われたのだと思える。
彼女たちは男女の平等を支持しながら,その実質を職場にも多分家庭にも持たな
い。そういったいわば「疎外された」女性たちが増えつつあること,これは男女
の平等について日本社会の矛盾が深化している一つの兆候と言えないだろうか。
第三の点は現在推定で約47%の最多数派である「性別役割支持型」に関して,
性別役割に関する質問の応答パターンについては単一潜在クラスをなすこのグル
ープが夫の収入については高額型と低額型に二極分解し中間額型が少ないという
点の意味についてである。この事は少なくとも性別役割意識という価値観につい
て同質なこの潜在クラスの中で大きな階級格差があり,それも上下への二極化傾
向があるという事実を意味する。即ち日本における女性の性別役割意識と社会階
層の関係の最も重要な特徴は.一方で性的平等支持の女性たちの間階級格差は
ないがステイタス格差の大きい異質な2つの集団が存在るのに対し,他方で伝
統的性別役割支持の女性たちの間には夫の収入の.そしてその意味で階級の,大
きく異なる2つの集団が存在するという点である。
日本での夫の収入の凹型の影響の存在をどう解釈すべきであろうか?夫婦間で
の性別役割分業に対する収入の影響についてベッカー(1981)の理論に基づく仮
説がよく知られている。家事も経済収入も夫と妻の貢献は代替的であり,家事は
夫も妻も共に仕事に比べて望まないがせざるを得ない事なので,家族の所得に貢
献の少ない者が貢献するという理由から,妻の収入が増えても,夫の収入が減っ
ても,妻の家事分担の割合が減るという仮説である。態度と行動は必ずしも一致
しないが,このことから「性別役割支持型」も他方を制御して妻の収入が増えれ
ば減り夫の収入が増えれば増えるという仮説が成り立つ。しかし結果は日米とも
妻の収入の影響については仮説のとおりであるが,夫の収入の影響は,日米でパ
ターンは異なるが,共にこの仮説を支持していない。これは憶測になるのだが日
本で夫の高額所得型が「性別役割支持型」になるのは,ベッカー理論的理由, 即
ち「主人と私ではなにしろ経済力が違うんです。だから私が主人と張り合って仕
事をするより私が家庭をしっかり守っていれば,主人も安心していい仕事ができ
るし,家族にとってはその方が良いのです」という様な態度で,夫と妻の所得能
力格差を前提とする時,伝統的役割分業が家族の効用を高める上で効率的である
(伝統的分業が夫の高額収入の持続を精神的に支えるから,あえて夫婦の役割の平
等化を志向しない)という「保守」的理由に基づくのであろうと想像できる。一
方夫の低額所得型では妻と収入との差が少なくなることがかえって性別役割支持
志向を増加させるのだから,これも憶測だがその理由は「主人は一家の担い手な
んですからしっかりしてもらわなくては。そりゃあ主人の収入だけでは苦しいか
ら私も働きます。でもそれに寄りかかられては困るんです。夫が家族の家計をさ
さえ妻はそれを助ける,そうなってこそ家族はうまくいくんですから」というよ
うな,いわば「夫は仕事,妻は家庭」という役割分業で機能する家庭を理想とし,
現在のそれからの乖離(夫に経済力がなく妻が家計を補わねばならないこと) を
望ましくない逸脱と考え,その逸脱が現実に存在すればするほど,性別役割分業
の機能的回復こそが家族め経済的向上をもたらす,と考える伝統的発想に固執す
る傾向から生まれるのであろうと想像できる。
こういった「保守」と「伝統」が混在する「性別役割支持型」は今後どうなる
であろうか。現在までの歴史的変化が持続するならば,彼女たちは次第に少数に
なるだろう。しかし「保守型」と「伝統型」ではその将来の傾向は異なる。夫婦
の所得能力格差を前提とする「保守型」は日本社会における男女の教育や就業や
昇進機会の平等化など男女の経済的機会の平等化が進めば減少すると考えられる。
実際「性別役割支持型」は大学卒者や高所得者には有意に少ない。では「伝統型」
についてはどうか?比較的経済力のない夫の家庭で夫婦が同等に経済的に貢献す
るのを「平等」と見るのは,夫婦の家事育児への著しく不平等な貢献が持続する
かぎり,女性にとって不公平な考えであり受けいれにくいものであろう。つまり
「保守型」の存続が家の外での男女の経済的機会の不平等に主に依存するのに対し,
「伝統型」の存続は家の中での夫婦の役割分業の不平等に主に依存していると考え
られる。日本においての今後の社会の変化がどの側面で男女の平等化をより進め
るかは定かでないが,「保守型」と「伝統型」の今後の存続傾向を決定するのはそ
れぞれ家の外と中とでの男女の不平等の存続の程度ではないだろうか。
最後の第四点は吉川(1998)が同じ1995年SSMデータを用いて検定した7つの
仮説の再評価についてである。仮説の説明は省くが吉川は「性別役割分業意識」
の決定要因として(1)生年世代仮説,(2)夫の職業的地位仮説,(3)妻の職業的地位
(就労実践)仮説,(4)(妻の)学歴仮説,(5)世帯収入(家計補助)仮説,(6)家計
参入度仮説,(7)伝統・因習的価値志向仮説を,それぞれ代表する説明変数との有
意な関係を緻密に分析した結果,彼が「狭義の性別役割意識」と呼ぶ意識に対し,
既婚女性についてデータは仮説の(1),(4),(7)を明確に支持し,(5),(6)には弱い
根拠を示し,(2)と(3)は支持しないと結論している。当研究では彼の(7)に相当す
る変数(吉川は「権威主義的態度」の変数を用いた)は用いなかったが,同じデ
ータを用い(ただし標本は異なる)全く独立の方法で,日本における「性別役割
支持型」対「性的平等支持」の対比について,吉川と同様データは(1)と(4)の仮
説は支持し(2)は支持しないとの結果を得た。しかし他の点についての結論は異な
る。まず仮説(3)であるが,吉川は妻の職業威信の影響を調べ有意でないので仮説
を否定している。その限りではそれに誤りはないのだが,妻の就労実践を広義に
考えればその従業上の地位の影響も含められるべきであり,本稿では雇用対自
営・家従と無職の区別が「性別役割支持型」対「性的平等支持型」の対比に, ま
たフルタイムの雇用対他の従業上の地位の区別が「性的平等支持型」内の「職業
志向」対「非職業志向」の対比に,それぞれ大きな影響があることを示した。ま
た別稿(山口,1998)では従業上の地位についての過去の経歴パターンも,現在
の従業上の地位を制御しても,「性別役割支持型」対「性的平等支持型」の対比に
大きく影響することも示している。職業の経済社会的地位自体は独自な影響がな
いが,女性の従業上の地位とその経歴は性別役割意識に大きくかかわりを持って
いるのである。
また吉川が弱い因果関係のみありと結論した(5)世帯収入(家計補助)仮説と
(6)家計参入度仮説であるが,これも彼が分析したように夫婦の総収入と夫婦間の
収入比を問題にしその影響を見るかぎり,これもその結論に誤りはない。しかし
彼は夫の収入と妻の収入の影響でなく夫婦の総収入と夫婦間の収入比の影響を見
たために,そして夫の収入の効果が単純な一次線形でなく二次の凹型であるため
に,実際には強い影響のある妻の収入の効果を見落としてしまったと考えられる。
本稿の分析結果は既婚女性の個人の経済的収入の増加とそれにつれて起こる個人
の時間の機会コストの増加は彼女たちの意識を「性的平等支持型」により大きく
近づけることを示している。米国と同様女性個人の経済的地位の向上は日本にお
いても性的平等意識推進の大きな原動力となる。