人間の非合理性を理解する

人間の非合理性を理解する

他人のことや社会のことを考えるとき、
合理的に考えると納得できないこともある。

それはどのように考えたらよいだろうか。

たとえば、推理小説などは、事件の始まりの地点では合理的な動機が呑み込めないこともあるのだが、
最終的には隠された事情が明らかになり、合理的に納得できるようにできている。
推理小説で、結局人間は合理的に了解することができないものだとするなら、あまり良い作品ではないのだろう。

たとえばトランプ大統領の立場に立てば、それなりに了解できるものだろうか。かれはノーベル平和賞が欲しいんだと仮定すれば、理解できる部分が増える。
イーロンマスクはどうだろうか。彼の立場に共感することがまず不可能である。あまりにもかけ離れている。それはまだ第一の前提としても、彼の立場で、ドイツの右派を応援している人などをどう理解したらいいのだろう。

しかし現実の事件では不合理な推定しかできないものもある。

その場合、一つは、子供の行動から推定する。
子供は脳が出来上がっていないので、非合理的な行動もとる。
しかし、未熟で不安定な脳ということを前提とすれば、ある程度推定可能になる場合もある。

また一つは性格障害の場合である。
脳の内部の利益を測定し選択する部分がやや偏っている場合であって、
合理的とは言えないが一貫している。

さらには、深層心理学的な分析がある。
人間は、合理的な意識だけで判断しているのではなく、
無意識や心的エネルギーや心理メカニズム(抑圧など)を内在していると仮定して考えれば、
一件不合理な行動や思考も合理的に解釈できるというもので
フロイト以来の伝統がある。
深層心理学は人間理解の深さを変えたと思う。

ドストエフスキーが描く人物などは、合理的な判断や感情の外部で生きているようなところもあって、
その点をとらえて、人間観察が深いなどとも言われる。
本当に深いのかどうかについては意見もあると思うが、
ドストエフスキーの文章の書き方は実に不合理である。
原稿料を稼ぎたいために無駄に話を長くしているような気もする。

いろいろ考えるけれども、結局、了解できない、共感できない部分があって、
そこは人間の不合理性とでもまとめておくしかない。

しかしそれでも文学作品に描くというのは、合理的に解釈はできないが、
芸術としては共感できないかとか、そのようなところを狙っているのだろうか。
それにしても、共感するには理解が必要だと思うが、
それは合理的な理解ではなく、非合理的な部分での理解と言えばよいのだろうか。

高所恐怖ならだれでも一応理解できる。
閉所恐怖は理解できない人も多いと思う。
しかし、高所恐怖の体験を延長して、閉所恐怖についてある程度理解することはできるのかもしれない。
閉所恐怖は非合理的というわけではなく、理解共感が簡単ではない例として出したが、
不適切かもしれない。

世間に多くある非合理性は、子供の、未発達な脳をイメージして理解すれば何とか了解できるのかもしれない。

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