主観的な経験がなぜ他者と共有できるのか?

主観的な経験がなぜ他者と共有できるのか?
その謎

自分が体験した「夕日は赤い」と他人が体験した「夕日は赤い」とは、どのように同じでどのように違うのか。

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相互主観性の話に進むのだが、それもなんだか怪しいが、それくらいしか説明がない。

人間の脳には最初から共通性があり、さらに成育の過程で、文化や言語や習慣から、集団からの共有物をたくさんもらっている。
その上での主観的体験を他人と共有するという話は、脳、言語、文化など、かなりの部分を共有している、そのことを基礎として、何とか理解できるように思う。

大体似ているから、衣類については、S,M,Lなどの規格でだいたい間に合う。

「夕日が美しいね」と二人で感動していたとして、厳密に何をどのように感じていたかは、少し違うのだろうけれども、だいたいは同じということで、生活には問題がない。哲学的問題は未解決だけれども。

共感について言えば、むしろ機械のほうが、その時間のソースコードを共有するなどの仕方で、共感が確認できるかもしれない。人間の脳はそんなことができない。

たとえば、冗談を言って笑ってくれたとしたら、話が通じたのだろうと認定している。実際はどうなのか、笑いの内容まではよく分からないはずである。しかしそれは日常生活の範囲内では、脳、言葉、文化の共通要素から考えて、共感したと思って不都合はないという程度の話である。

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