心理学にはいろいろな流派があり、理論も臨床も様々にある。
ある患者について、いくつかの流派が、見立てと、治療の見通しを述べたとして、
その中のどれかは間違っているのだろうか。
数学のその問題は幾何学でも方程式でも解けるとか。
複素数でもベクトルでも解けるとか。
それは確かにその通りで、それらは数学的に等値だからである。
いくつかの流派が、ある患者について、意見を述べるとして、正しいことを言っているならば、等値なのだろうと考えられる。
あるいは、いくつかの流派は、患者について全体を述べているのではなく、問題の一部分、人間の一部分だけを述べているのだと言うのだろうか。
部分的な真実だけで治療ができるものなのだろうか。
いずれの心理療法もそんな高次の段階にはなくて、まだまだ駆け出しのものでしかないということなのだろうか。
ただ一面を取り上げているだけ。
巨大な像のいろいろな部分をそれぞれが撫でているに過ぎないのだろうか。
同じものを見て、流派によって表現が違うだけであるとの意見はあるだろうか。
それは好意的過ぎるだろう。
現実を照らす射程が長いものも短いものもある。
理論として厳密に検証されているのではなく、
ただ世俗の権力集団でしかないのだ。
政治的つばぜり合いでしかない。
もっとも他流試合などしないのだが。
一部部も正しい点があるなら、他の流派もそれを取り入れるべきである。
だから統合に向かう。
しかし、統合しようとすると、それぞれの概念構成を厳密に知りたいのに、よく分からないのだ。
患者の治療にとって何が優先されるべきかについて、合理的に決定できるはずであるが、
頭があいまいで、世俗の力学にからめとられているから、できない。
患者Xについて、流派Aは独自の見立てをして、独自の治療を提案する。
流派Bも一見して違う見立てと治療を提案する。
どちらかが間違いなのか、そうではなくて、共通点は正しくて、その共通点に正しさがあるのだろうか。
各流派でやっていることの内容を翻訳して比較可能にする必要がある。
しかし結局、確実に観察できないことを扱っているので、そこで行き止まりだ。
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野球でも水泳でもサッカーでも、ただ歩くだけでも、走るだけでも、体を動かすって、いいことだよね、と言う程度の話。いろいろあるんだから、それでいい。偶然好きになって役に立てば、それでいい。