精神医学と哲学

きっかけがあったので、精神医学と現象学など、どのように説明できるかなと思い、少しやってみた。
でもまあ、あまり成果は出ないが、論理の一貫しない雑談としてメモしておく。

なぜかと言えば、やはりこの方面の、内容の乏しさがあるのではないかと疑っている。張りぼてなのである。フッサール、ハイデガー、メルロポンティ、ラカンなどの仕事があまり中身がないなどと言うのは失礼な話で、私の理解が届かないだけなのだろうけれども、たとえ理解が足りなかったとしても、たとえば物理学のように、結果だけ大いに利用させてもらって、ありがたみを実感できるものもあるはずだし、それが本物だろう。数学も物理学も本物だ。

精神医学と哲学の関係を考えてみると、物理学と数学のように、あるいは工学と物理学のように、応用と基礎の関係にはなっていないと考えざるを得ない。役に立たない。何の役に立つかと言えば、心理学科の教職に就職するための論文作成に役立つ程度で、治療に役立つなんてものではない。

いま世界ではAIが人間と会話して人々を驚かせているが、実はその原理が大規模言語モデルと多次元ベクトル空間での確率計算でしかない。それなのになぜかその内容が普通の会話っぽいし、仕事をさせればきちんとやってくれるし、プログラムコードも書いてくれるし、さらには画像、動画、プレゼン用の資料など、平均的な人間よりもかなりうまくやってくれる。

で、やっぱり、この延長として、AIは自意識を持つの?という疑問になる。自意識とか意識とか、定義するのもそもそも問題があるのだが、個々人が自分には自意識があり自由意志があると内部で感覚していることは共通の体験らしく、そこから疑っていても、例えば、我々が月を見ていない間、月が存在する保証はあるのかなどと言うようなもので、そんなにまじめにお付き合いする必要もないだろうと思うが、(反証もなかなか困難、でも、そんなものは信じないし、議論に巻き込まれてもいいことはない)、むしろ、自動運転ができるかどうかとか、水素自動車はどうか、新しい発電の方法、高性能大容量蓄電池の新発明、光子で演算する集積回路、など素敵なことがいっぱいあるのだから、楽しいことを考えたほうがいい。

また例えば、「今日の夕日の色はしみじみとするねえ」と言ったとして、隣の人も「そうだね、しみじみとするよ」と言ったとして、「しみじみ」という記号で一致したとしても、体験の内容・質として、クオリアとして、一致しているかなんてわからない。「しみじみ」の意味内容も、一致しているのか、ずれているのかも怪しい。それでも、雑に考えて、まあまあ不都合がないのだからいいのだけれども。

夕日の赤がどんな赤だと隣の人は思っているのかと考えて、いろいろな人が言うには、分からないという結論である。信号の赤は、体験の質として何であっても、赤という性質と、赤信号はとまれという行動が一致してていれば、感覚と行動をつないでいる内実がどうであっても関係ない。

大雑把に言って、自由意志が錯覚であったとして、何の不都合があるだろうか。錯覚だと私は思っているが、それでいて人生に絶望しているわけでもない。自由意志は錯覚であるという前提からも、人生を生きる理由を構築できると信じているのである。構築できるというよりも、ありがたいことにすでに人生の意味も歓喜も構築されていて、それをことさらに否定する必要もないし、その人なりに楽しく生きていけばよい。

いや、しかし、そうは言うものの、自意識とか自由意志って不思議だと思う。クオリアについてもなぜそんなものがせいりつしているのかと思う。メカニズムが知りたい、人間同士で、他人の感覚など、原理的に分かるはずがないのに、なぜか、一応、分かるということにして、生きていたほうがうまくいく。いろいろと不思議である。

カントが答えるべき疑問は何かを明確に提示して、コンラート・ローレンツが明確に答えを提出したと思う。私の感覚には、ローレンツの答えが一番ぴったり合う。(説明が足りないが、短く説明するのも大変なので省略。)

分からない根本問題はあるが、分からないままでも、人生を生きるには十分だ。

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昔から、精神医学は、方法論としての哲学を自分で作るというよりは、哲学方面から輸入する形が多かった。方法論を輸出したのはフロイトくらいのものだろう。だからフロイトは本物だった。ほかの人は、フロイトのような業績を上げたいということで、それぞれの時代の流行の哲学と組んで、何かしらの哲学的精神医学を作った。ドイツでもフランスでもそんな感じだ。カトリック的伝統と精神医学の結合もあったと思う。それは流派としての明確な名前がなくても、そもそもすべてはキリスト教的思想の上に成立していた時代があった。
実存哲学と精神医学が結合して、実存的精神医学とか実存的精神療法などの名前がついているし、アメリカ西海岸風の考えと精神医学が結合してトランスパーソナルになる。トランスパーソナルは雑多な内容でまとめきれないが、個人的には初期のケン・ウィルバーの業績に最も共感する。

日本だと仏教とか禅と精神医学が結合する。

なぜそんなことばっかりやっているのか。
確かに、キリスト教カトリック的思想が全体を支配している中での、精神医学は、嫌でもなんでも影響を受けざるを得なかった。影響を受けているということ自体が意識されない。後に多文化が比較されるようになって初めて、自分が無批判に受容していた文化の特殊さが意識されるようになる。

それではよくないだろうということで、とりあえずは自然科学的な精神医学が目指された。当然である。天動説ではなく地動説、天地創造ではなく進化論。そのくらい当たり前のことである。

しかしながら、天動説、天地創造説、哲学的精神医学、宗教的精神医学、そういったものを否定するとして、地動説、進化論、生物学的精神医学は、十分に正しいのだろうか。自然科学の内部でも、パラダイムシフト論が言われたように、その時代その地域の思想にすっかり染まっていて、あとで恥ずかしい思いをすることはないのだろうか。昔は宗教や思想の影響を受けて色眼鏡をかけて世界を見ていたということに気づいたとして、現在、我々が客観的で確実な考えだと思っているものが、実は時代や地域の限定された偏った考えだという可能性もある。パラダイムシフト論は、絶対の確実な真理に到達するのではなくて、別のパラダイムが優勢になるだけで、あまり信じないほうがいいよという提言でもある。

キリスト教世界での精神医学は偏ったものだったし、日本の伝統で言っても、つきものだとか、お祓いをするとか、よく分からないが、そうした明らかに前時代的な思想が支配していた。

そこから脱却して、現在の生物学的精神医学になって、果たして安心していられるのだろうか。突然パラダイムシフトが起こって、現在の生物学的精神医学が「天動説」だったと思うようになることも十分にあるのだと思う。

特に脳の話とか、意識の話とかは、謎が多いのであって、現在の自然科学が道具として十分とは思わない。

ではすべてを相対化するとして、今現在の自分が一番確実で客観的だと信じる愚かさから脱出する道はあるのだろうかと考えると、とりあえず見出されるのは現象学なのである。現象学は、今現在自分の書けている色眼鏡がどんなものであるか、よく観察しようという目標から始まる。それを現象学的還元とかエポケというが、それは分かった。だからどうすればいいのか?

前時代の人間は確かに色眼鏡をかけ続けていて、外すことは考えもしなかった。では現代のわれわれは色眼鏡をかけていないのだろうか。多分、色眼鏡をかけているに決まっている。例えば、人権尊重、民主主義、法治国家、のような思想は、現代では否定しようもなく、明確に肯定的な到達点と信じてよいと思っているが、その確信が色眼鏡なのである。

ところがそもそも、人間は色眼鏡をかけなければ何も見えないのだ。色眼鏡を外して世界を認識する方法はないのか。そのあたりから、現象学が出発する。あらゆる先入観を排除し、ありのままを見つめようなどと言う。

それももっともで、西洋では魔女を処刑する伝統などがあり、魔女の一部は精神的に不安定な人だったかもしれない。聖書に書いてありますとか、アリストテレスが言ってますとか、いろいろ面倒だった。当時、先入観を排除して観察することはできなかった。

しかし現象学が色眼鏡は外して裸眼で物を見ることを可能にしたとも思わない。ただ、色眼鏡をかけてみていたら、昔と同じだよという主張には一応同意できると思うが、そうかな、そのように考えることがすでに色眼鏡思考になっていないか?メタ化に関する議論はよくあるのだが、この場合は、それはどのようにして検証できるのだろうか。

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先は長いがゆっくり行こう。

例えば、消化器内科で、おなかのここら辺が痛いんですと言ったとして、そこからいろいろ検査したり問診したりして、異常が見られない場合は、心療内科で相談してみてくださいと言われる。

素朴実在論は哲学としてはあまりにも幼稚で論文も書けないと思われているものであるが、ニュートン力学や電磁気学、熱力学くらいの世界観で言うと、素朴実在論で特に不都合はない。現実に、現代日本や先進諸国での医学の大半は素朴実在論に基づいている。

簡単に言うと、みんなが共通して見て感じている通りの客観的実在があり、それは観測者がいてもいなくても安定した実在である。そのように仮定して、その先の議論を進めても問題ないし、実りが大きいとする立場である。

お腹が痛いという場合、自分のお腹という実在があり、痛いと感じる意識が存在している。お腹に異常があれば、消化器科で診断治療できる。お腹に異常がない場合は、痛いと感じている意識の問題なので、心療内科で相談するということになる。

腹部に医学的異常があるかどうかについては、消化器に関する医学で、完全とは言えないだろうが、しかしそれなりに十分に把握できる。とくに量子力学も必要ないし、相対性理論も必要ない。もちろん、すべての存在は量子力学的に記述されるものなのではあるが、医学的診断とかロケットを飛ばすとか、建築設計をするなどと言う場合は、素朴に、物質は客観的に存在して、それを観察する意識は別に存在していると考えてよい。外在する物質の性質について、大多数の周囲の人と異なる見解を語る場合には、外在物質を感覚して思考する意識のほうに問題があるのだろうと考える。

そこまではいいですよね。でも例えば、外部から知ることができない、意識の状態について、ということになるとどうでしょうか。
たとえば不安とか抑うつについては、動作や表情などを外部から観察することによって知ることはある程度できますが、主観的な苦しさについては、外部から測定することはできません。本人の意識が言語を発することによってしか伝えられないものがあると考えるのが普通でしょう。

すると、極端に言えば、自分の脳のどこがどんなふうに故障しているかを、その故障しているかもしれない脳が発する言葉によって知ることが必要であるということになります。しかしこんな風に表現するとして、いろいろな注意が必要になります。

その一つとしてあげましょう。脳にもいろいろな部分があることを考えると、脳の中で故障している部分と健常な部分を分けて考えるとして、故障している部分について、健常な部分が報告をすると言うなら、蚊に刺されて足がかゆいというのと変わりはないでしょう。内部を観察して外部に報告する機能の一部に故障があるならば、その報告からどこが故障しているのか推定するのは簡単ではないでしょう。故障しているらしいとはわかりますが、どのように故障しているのかはわかりにくい。なにかすっきりした方法があるのかもしれないが。二回積分したものなら二回微分すればいいとか、そういうのとは少し違うような気がする。

脳の部分AとBがあって、Aは演算部分で、Bは外部に報告する部分だとする。その報告を見た外部の人間は、報告には間違いがあると理解できる。しかし間違っているのはAなのかBなのかは区別が簡単ではない。コンピュータなら部品を取り換えてみればいいのだろうが。

さらに、Bが、Bの内容はこうですと報告してきたら、外部の人は、「Bは間違っている」と報告を受けるのだが、これはどう解釈すればいいのだろう。一種の自己言及問題なのだろうか。それとも、単純に、Bの機能障害であるというだけなのだろうか。

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うまく伝わらないと思うので方向を変える。
例えば、古くからある精神病院で、古いカルテを調べたとする。その場合に、エディプスコンプレックスで苦しんでいると記載があったとして、それは医師の解釈だとはわかるが、どのような事態をそう表現しているのか、そこが不十分であったりする。
医師の立場から見えるものや聞こえるもの、感じられることを記録すればいいのだが、仮にすべてをビデオに収録しておいたとしても、匂いや手触りは簡単には記録できない。医師の側の心に起こる反応も、言葉で記録するくらいしか方法はない。(方法が考えられないこともないで、実際には面倒だ。)
そうした中で、いろいろなことを省略して、そのころ流行していた用語で記述すると、後世の人にはうまく伝わらない。

カルテに一時の流行語など書いてはいけないのだ。色眼鏡をかけていますよという印である。

だとすれば、カルテにはい眼鏡なしの記載をしたいがどうすればいいか。それが現象学的記述というものである。

性格に言えば、そうした、色眼鏡なし、先入観なしの記述を現象学的記述と名付けた。そこまではいいのだが、実際には何を書けばいいのだろう。我々は色眼鏡なしには書けないのだと知るだけではないだろうか?

ビデオで映像と音声を記録しておいたほうが後世には役立つのではないだろうか、と思ったりする。我々凡人は、先入観も偏見も持っているし、先入観にまみれていることを自覚する方法さえないのが現実だろうと思う。

フロイトは無意識、ベックはスキーマとか自動思考とかCore Beliefs(中核信念)などを用いて説明するのだが、要するに、意識的な精神の営みのほかに、意識的ではない経路の精神の営みがあって、それが人間の思考や行動に大きな影響を与えているという系統の学説と考えられる。脳内の、自分の意識していないところに何かがあり、それが意識的行動思考に影響を与えている。もっと拡大すれば、言語活動というものは、個人的なものではない面が大きいので、個人の意識を全体的に取り囲むようなものだ。あるいは、意識活動は言語というプールの中に浮かんでいる。逃れられない。それもまた一種の制約である。だから言語が異なれば、常識も偏見も異なることになる。共通のものも多いが、それは脳の解剖学的な共通性による部分と、文化や言語の構造の共通性による部分があり、また進化論的に共通のものから分岐したことも原因だろう。しかしそれもまた色眼鏡であり、偏見であり、制約であり、現象学的に乗り越えなければならないものである。

話は逸れるがついでに書くと、フロイトは、意識外の何ものかを意識化すれば問題はなくなるのではないかと考えた。(まあ、最初期のころの話。)ベックは意識外のものを訂正すれば、症状は消えると考えた。ここは大きな違いだろう。そのほかの精神療法も、意識を邪魔する、曇らせる、過ちに導く、なにか意識外のものがあって、それを様々に名前を付けて、それに対してどのように対策するか、考えているような面がある。

それに対して、ロジャースとか対人関係療法は、特に原因に対して言及することもなく、その原因と仮定したものに対して操作を加えたりすることもなく、もっぱら治療の非特異的要因を重視して、治療を進めるような印象がある。私の理解が浅いだけかもしれないのだが、一応、そんな印象を受ける。そしてその方向は、大変正しいと思う。原因はこれで、病気のメカニズムはこれだと言っても、ただの仮説であり、証明されたものでもない。そんなあいまいな仮説を治療に用いて、はたしてよいのだろうか。副作用があるのではないか。

そう考えると、患者と話し合って、常識的にそれは同意できる、少しの信頼関係と、安心感とを基礎として、生活改善を考えて可能な範囲で改善する、それは対人関係の改善であったり、不適応な役割を押し付けられていたときには役割を変更することであり、人生に不足しているものがあったら補うことであったりする。これは疾病治療というよりは、全般的な適応改善指導ともいうべきものである。だから、疾病モデルとしては弱いのも当然である。

しかし逆に、提案していないのだから、間違うこともないのである。よく寝て、よく食べて、体を動かして、仕事をして人と社会に関わり、友人と楽しみ、家族を大事にして、そのように生きることを目指すなら、身体や精神に多少の不都合があっても、幸福度は改善するのではないか。そのようにしているうちに、人間の内部の修復機構が働いて、どこをどう修復するのかははっきりしないとしても、回復に向かうこともあるのではないか。少なくとも、患者に害のあることはしない、少しでも益があるように働きかける。そうしているうちに、傷は治ってかさぶたもはがれる。卵はひよこになって、ひよこは鶏になる。内部の治癒力を邪魔しないで引き出す、それでいいような気がする。

卵はどうしてひよこになるかとか卵もヒヨコも鶏も、知っているわけではない。ヒヨコがどうして鶏になるか、ひよこは知るはずがない。知的には理解していないが、卵はヒヨコになり、ヒヨコは鶏になるのである。

知るからいい生き方ができるわけではないのは当然だろう。知ることなんて必要ないのだ。知れば何か大変な人生の変革があるなどと期待するのは、人間に騙される能力があること、そして自分に不相応なもうけをずるくたくらむ癖があること、それらが原因である。

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またわき道にそれた。カルテの書き方でいえば、時代が変わっても、今の時代でいうならばこの診断、昔の時代でいえばこの診断、というようにはっきり考えられるように要素的な事実を、時代が変わっても、地域が変わっても、通用するような普遍的な観察事実を書くことである。

と、ここまではいいのだが、「時代が変わっても、地域が変わっても、通用するような普遍的な要素的な観察事実」は現象学的記述なのだが、実際はどういうものかといえば、少なくとも、診察の様子とか、日常生活の様子をビデオで撮影することはできる、本人の同意を取って撮影しておけば、100年後の人も、200年後の人も、それなりの診断をつけてくれるし、現代の診断としてどのようなものであったかも、説明すれば分かってくれると思う。患者の様子をビデオで撮影して記録しておくというのは内科でも何かでも有効だ。

ところが精神科の問題は、患者自身が色眼鏡で自分を見ていることを排除しきれない点である。神様が私にこうしろと命じていますでもいいし、先祖の霊が私にこう言ってしますでもいいし、現代の陰の権力者がひそかに私の脳に直接命令していますでもいいし、幻聴が止まらないんですでもいい。患者さんが、私が国連事務総長であることを知っている人がいて、私を攻撃して嫌なことを言ってくるのだが、これをお医者さんたちは幻聴というんですよね、だから私も幻聴という言葉で費用減しますが、この幻聴はなければないでさみしいし、このような仕方で私が世界の平和に寄与できているのだから悪いことでもないんだが、などと言う。現在の精神医学者としては幻聴という記述の仕方が最も普遍的で脱ローカル価値観的な気がするのだが、やはり私としては、色眼鏡を外したという気分にはなれない。少なくとも先進諸国では同じ色眼鏡をかけているのだからそれでいいと一旦は思う。それだけだ。

現象学的記述は行き止まりの感じがある。色眼鏡を外して、裸眼で見ることはできそうにない。しかし現代では多文化精神医学という方法がある。

多文化精神医学は、色眼鏡を比較するという以上に多様な意義があると主張され、それは納得できるものだが、今ここでの関心でいえば、裸眼視するとはどういうことかではなくて、他の文化はどのような色眼鏡で見ているかを観察することができるので、自分を反省することにつながる。そこに大きな意義がある。裸眼は分からないものの、いろいろな色眼鏡は分かる。そうであれば、自分を相対化するきっかけにはなるのではないか。

文化人類学などとつながる多文化精神医学であるが、そのような意義があると考えれば、自分のかけている色眼鏡がどのようなものであるか考えるきっかけにはなる。まあ、依然として、何かの色眼鏡をかけなければ目が見えないのではあるが。一歩前進はできるだろう。

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話を元に戻して、精神医学の基盤として自然科学を採用するか、何かの哲学流派を参考にするかという問題がある。昔あったと言ったほうがいいだろうか。現在はもちろん自然科学的精神医学である。自然科学も一つの哲学流派だろうとは言える。そして少しずつ変化して、時にはパラダイムが大きく変化する。しかし、そこら辺のへなちょこな詐欺的哲学流派よりは、信頼に値する。理屈が分からなくても、結果だけを享受することもできるというのはかなり信頼できることではないだろうか。

信じるものは救われると言うが、自然科学の場合は、信じていなくても救われるのである。

自然科学を悪く言う人にも力学法則は平等だし太陽光のエネルギーも平等で、電化製品も平等に使ってもらえる。

トンデモ科学として、自由意志と量子論とか、ある種の人たちがある種の人たちをターゲットにして現在も商売しようとしているが、そんなものは別。

哲学と精神医学の関係で、有名なものは現象学的精神医学と実存哲学的精神医学で、これはそれなりに意味はあったように思うが、今振り返ってみるとどうだろうかと思って、考えてみた。

自然科学的精神医学はドイツのクレペリンとか、フランスの神経学者シャルコーなどの伝統とかがあって、精神分析が登場し、それがその後のアメリカの精神医学につながって、というか、つながっているかどうかは微妙なのだが、まあ、そんな歴史になっていて、現在は自然科学派が圧倒的に優勢で、哲学融合派もフロイト的流派も劣勢である。ただ、人文系の人は。

一方で、精神医学と言って一般に連想されるのはフロイトではないだろうか。そしてその後のユングとか。最近アドラーがとても有名になった。これも不思議で、フロイトのとりあえず有名な弟子としてはユングがいて、あと有名でなくて地味なアドラーがいて、と認識されていて、ちっとも人気が出ないアドラーだったが、嫌われる勇気とかで人気が出たらしく、精神医学会では依然として人気などないのだが、心理学方面で本の出版などを見かけるようになった。

フロイトは初期のころはとても自然科学的で、精神のモデルとしても、力学的だったし、生物学的発達理論や進化論を背景に説明していた。後期になるといろいろ文明論的な考察などが多くなり、自然科学からは離脱するようなことになる。その弟子たちはだんだん自然科学的発想から離れてゆく。

有名なのはユングで、自然科学ではなく錬金術的伝統なのだろうけれども、なかなか大変な人物と思われる。個人的には深入りしていないので論評もできないが。心理学方面では、間口が広いこともあり、また自然科学的流派と拮抗しうるくらいの雑多な人文学的背景をもって、ある種の人たちには受け入れやすい面があるのだろう。私としては、人間の脳の働きの一部にはユング的な部分がまだまだ多くあるので、一般にも人文系の人たちにも受容されているのだと思っている。

ドイツではドイツ観念論の系統がまずあり、一方で自然科学的精神医学があり、完全な融合でもないが、お互いに別な話という感じで同居していた。「精神が異常をきたす」場合、精神とは何かの部分は昔からのドイツ観念論が得意で、「異常」については精神医学が得意だった。フロイトはドイツ語で論文を書いた人なので、ウィーンやドイツでも話題になったが、夢分析とかリビドーとか無意識とか精神力動(もっと噛み砕いて言うと水力学モデル。エネルギーとしてのリビドーとか、その昇華とか、抑圧とか、初期のフロイトのモデルは簡単で理解しやすい)、フロイト自身の発想は自然科学的なのだけれども、それを広めた人たちはトンデモ系の人たちが多かった。人文系の人たちは何かの哲学流派を基盤としていると自称して異常心理学を論じるような習慣があり、異常心理学や精神医学はまずはドイツ観念論と近づいたがそのあたりではさしたる収穫はなかったような気がする。しかし論文を書くには、ドイツ観念論は便利なところがある。要約するにも煩雑すぎて、自然科学派は諦めてしまう。

フロイトは哲学流派としては特に何かを採用したということもなかった。そのあとで、現象学を基礎にして精神医学を論じる人たちが現れた。まあ、フロイトはチャラいということだろう。日本人からすると読むのは難しいが、それはドイツ語が不得意な日本人はそう思うのかもしれない。現象学+精神医学はなかなか本格的な哲学的なことを言っている。しかし個人的に思うには精神医学的な内容には乏しい。何か深いようなことを言いたいらしいが、別段すごくいいことを言っているわけでもない。そもそもいいことを言っているなら古典に戻る必要もない。力学を学ぶときにニュートンの変な原点にあたることはあまり意味がないでしょう。
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具体的に、現象学+精神医学の路線で有名なのは、まずカール・ヤスパースだ。
ドイツの精神科医・哲学者であり、現象学的精神病理学の基礎を築いたといわれるが、どんな基礎なのか、今となっては、人文系の懐古趣味者しか興味がない。
ヤスパースは、精神障害を理解するために、患者の主観的な経験を重視し、精神病理学の「了解可能」と「説明可能」という概念を導入したということになっているが、「患者の主観的な経験を重視し」って、当たり前すぎるし、神経症は了解可能で、精神病は了解不可能だが、説明可能という有名だが役に立たない話は、最近ではまともに論じられることもない。こんなことをいまさら言っている人がいたら、よほどネタがなくて仕方なく出してきたか、そのほかいろいろと事情があるのだろうと推定する。了解可能とか説明可能とかいうのは、判断者の脳の内容に依存しすぎているだろう。診断はそういうものではないと考える自然科学派と、人間の脳の最上位機能を診断するにあたっては、判断者の側も、脳の最上位機能を働かせるしかないのだという、ロマン主義的な流派の人たちがいる。
有名だけど、いまさら論じるに値するものでもないだろう。

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ルートヴィヒ・ビンスワンガーはスイスの精神科医であり、実存主義的現象学を精神医学に応用しました。ビンスワンガーは、患者の存在全体(Dasein)を理解するために、患者の世界観や存在のあり方を分析しました。実存主義的現象学と言っているが、現象学は認識論の根本のところの話であり、極端に言えば、それ以外の考え方が可能とも思えない、しかしそのせいで、何をことさらに現象学というのか理解できない。現存在分析(: Daseinsanalysis : Daseinanalyse)とかの用語がある。

wikiには次のようにある。ビンスワンガーはもともとジークムント・フロイトのもとで学んだ精神科医であったが、1930年代にマルティン・ハイデッガーなどの現象学の影響を受けて、「現存在分析」という新たな手法を模索するようになった。この現存在分析は、統合失調症の症状を理解可能なものとして解釈するために哲学上の概念を利用しようというものであった。そして、ビンスワンガーは、1944年に「症例エレンウェスト」(独: Der Fall Ellen West)を出版したように、臨床上でも「現存在分析」を実践した。一方、別の精神病理学者メダルト・ボスは、より徹底してハイデガーの哲学を精神分析に適用する立場をとった。日本の精神病理学者の木村敏も、現存在分析の影響を受けているとされる。

このように、実際にはフロイトとハイデッガーを接ぎ木しようと安易に始めた人なのであって、現在からみれば、フロイト以上ではないし、ハイデッガー以上でもない。

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でも、個人的にはビンスワンガーやメダルト・ボスは昔好きだった学者さんだ。懐かしい。

ネットで調べられるものをまず引用してみよう。

現存在分析げんそんざいぶんせきDaseinsanalyse ドイツ語

精神病理学手法の一つ。スイスドイツを中心に20世紀初頭から展開し、とくに精神病患者の理解のための有力な方法論となった。現象学的精神病理学とほぼ同義であるが、ヤスパースの記述現象学やフランクルらの実存分析とは似て非なるものである。患者の精神現象は医師にとっては直接に観察しうるものではなく、その把握は患者自身が自分の主観的体験をどのように対象化し、医師に伝えるのかによっている。ところが精神病状態では、それを体験する自己(精神)そのものが変化をこうむっているために、信頼しうる観察者をどこにも定めることができない。医師が患者を理解しようとするとき、いつも彼の体験が彼自身の自己の変容なかで、いかに成立しているのか(あるいは成立しそこなっているのか)という観点にさかのぼらざるをえないわけである。この意味では「体験が意識に対してどのようにして現れてくるのか」に徹底してさかのぼろうとする哲学的現象学(フッサール)が、そこでの方法論として受け入れられたのは必然であった。

 現存在分析の創始者であるビンスバンガーは、統合失調症の患者が示す奇妙な態度や妄想を単に了解不能とみなす日常的(経験的)態度を中止して、そうした体験をその構成(構造以前)にさかのぼって解釈しようとした。彼の分析はフッサールのいう超越論的還元にそったものであったが、ただ還元を行うだけでは状態像の把握は曖昧なままになってしまう。そこでは前期ハイデッガーの存在論的概念(世界内存在、現存在、時熟、道具連関など)が、より積極的な解釈の手がかりとされた。統合失調症を人間学的不均衡として捉えるビンスバンガーらの立場はそれゆえハイデッガーの用語を借りて現存在分析と呼ばれる。彼がフッサールやハイデッガーの哲学に依拠しながらも、それを経験科学としての精神病理学の樹立のために利用する立場に留まったのに対し、同時代のスイスの精神病理学者メダルト・ボスMedard Boss(1903―90)は、より忠実にハイデッガーの哲学概念に従い、それを性的倒錯や神経症などの治療状況の分析へと応用していった。またビンスバンガーの静態的分析の立場は、ブランケンブルクや木村敏らによってさらに成因論(成因にさかのぼって分析すること)的に純化され、1970年代以降、黄金期を迎えた人間学的精神医学(妄想や幻覚といった患者の体験を単に症候としてとらえるのではなく、人間の全体状況から解釈しようとする立場)にあって中心的役割を担うことになった。

 現存在分析は患者の示すさまざまな状態像を、「生きている世界」(世界内存在:In-der-Welt-Sein)の変化の直接の現れとして解釈(直観)する立場である。そのことによって了解の地平は拡がり、統合失調症に対しても治療的接近の可能性が用意されることになった。ただしビンスバンガーからブランケンブルクに至る系譜は、人間の間主観的構成(自己と他者の成立問題)という、フッサール現象学にとっても未解決の課題を多くはらむものであったがゆえに、この流れは複雑難解な哲学的展開、あるいは精神病理学の方法論的雑居を生み出すことになってしまった。現象学的精神病理学の潮流は、その出自からして方法論的な厳密さを追求するというものであったが、80年代以降の北米を中心としたDSM(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders。アメリカの精神医学会による「精神疾患の診断・統計マニュアル」)に代表される操作的(マニュアル的)診断と生物学的精神医学(画像処理、ニューロトランスミッター(神経伝達物質)、遺伝子学などによる精神疾患の分析)の隆盛のなかでは精神医学の「文学的」側面などと誤解され、やや軽視される傾向にある。

[大饗広之]

『ビンスワンガー著、荻野恒一・宮本忠雄ほか訳『現象学的人間学――講演と論文 第1』(1967・みすず書房)』▽『荻野恒一著『現象学的精神病理学』(1973・医学書院)』▽『木村敏著『分裂病の現象学』(1975・弘文堂)』

[参照項目] | 木村敏 | 現象学 | 世界内存在 | 統合失調症 | ハイデッガー | ビンスバンガー | フッサール | ブランケンブルク

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「現存在分析」の意味・わかりやすい解説

現存在分析 (げんそんざいぶんせき)Daseinsanalyse[ドイツ]

精神医学のなかで人間学的理念を強調する学派の一つ。1930年代にスイスのビンスワンガーによって築かれ,第2次大戦後のドイツ語圏で盛んに迎えられて,50年代には発展の頂点に達した。もともと,20世紀はじめごろまでの精神医学では,自然科学的方法を援用することにより,症状の識別や病気の診断,さらにはその背景にあると想定された脳病理学的過程の探索がおもな努力の対象であった。これに対してS.フロイトの精神分析とヤスパースの了解心理学が相前後して病者自身の精神内界に踏み込んだ経緯はよく知られている。これらの方法論的限界を打ち破って病者に対する了解の地平をいっそう広げ,同時に病者と世界との関係,ないしは世界のなかでの病者のあり方を具体的に描き出そうとしたのがビンスワンガーである。その方法として用いられたのはまずフッサールの現象学,ついでハイデッガーの現存在分析論Daseinsanalytikで,現存在分析という名称もそこから由来している。

 現存在分析の最初の道標と目されるのはビンスワンガーの《夢と実存》(1930)で,ここでは,フッサールの現象学的方法に拠りながらも,すでに〈世界内存在〉としての現存在というハイデッガー的把握に立って,人間存在に固有な〈上昇と落下〉の人間学的本質特徴を提示している。彼によれば,〈稲妻にうたれる〉とか〈天から落下する〉とか〈空高く飛翔する〉といった表現が古今の詩や文学や神話のなかにしばしば出てくるが,これらは単なる詩的比喩ではなく,人間の実存の最も深い根底から湧き上がってくるもので,それまで生を支えていた共同世界との調和が破れ,ゆらぐ瞬間に実存が挫折する姿そのものにほかならない。こうした〈上昇と落下〉の現象学が具体的に躁病者のあり方に適用されたのが同じくビンスワンガーの論文《観念奔逸》(1931-32)で,ここでは病者の世界が一つのまとまった意味あるものとして理解される。しかし,現存在分析が最も大きな意味をもったのは精神分裂病(統合失調症)に対してであって,ここでもビンスワンガーのあげた功績は大きい。彼は5症例の克明な分析を1957年にまとめているが(《精神分裂病》),ここでは分裂病は,自然な経験の一貫性が破綻して,かたくなな二者択一に分裂し,これをひねくれやわざとらしさ,もしくは思い上がりで隠蔽しようとしながら,最後に力がつきて危機場面から身を引き上げてしまうといった現存在過程として理解される。

 このように現存在分析は,けっしてフッサールやハイデッガーの哲学の単なる医学的応用ではなく,〈独自の方法と独自の精密性をそなえた現象学的経験科学〉であり,こうした理念は,現存在分析の系譜につらなるM.ボス,クーンR.Kuhn,テレンバハH.Tellenbach,ブランケンブルクW.Blankenburg,クラウスA.Krausらの論著のなかになお受け継がれている。日本でも戦後の昭和30年代にビンスワンガーの紹介をつうじて現存在分析が導入され,当時の精神医学につよい刺激をあたえた。
執筆者:宮本 忠雄

いいこと言っているような気もするが、ブンガクでしょう。こういうのが好きな人がいるわけ。

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テレンバハH.Tellenbach(テレンバッハ)の本も、有名であり、特に日本では、よく研究された。古い世代の先生には、テレンバッハの本にも書いてあると言うと、説得力があった。

東大の精神科とか国立精神神経センターとか松沢病院とかで、下田の執着気質とか、今日との笠原・木村の研究とも重なり合う部分が少なくないとして尊重され、薬剤の時期としては、三関係抗うつ薬の急速な利用拡大の時期に大切にされた、それがテレンバッハである。

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ブランケンブルクW.Blankenburg:ヴォルフガング・ブランケンブルク (Wolfgang Blankenburg) は、ドイツの精神科医および精神病理学者であり、特にシュゾイドパーソナリティと現象学的精神病理学の研究で知られています。彼の研究は、精神病理学と現象学の接点に焦点を当てており、特に以下の点で注目されています。

1. 現象学的精神病理学

ブランケンブルクは、現象学を精神病理学に適用することで、患者の主観的な体験を理解しようとしました。彼は、精神病患者の体験を詳細に分析し、その中で失われる「当たり前」の感覚について論じました。

2. 自己の感覚の喪失

彼の最も有名な著作である『正常性の喪失(直訳は自然な自明性の喪失となるが、翻訳の書物としては自明性の喪失のタイトルである)』(Der Verlust der natürlichen Selbstverständlichkeit) では、精神分裂病(統合失調症)患者が感じる自己の感覚の喪失について詳述しています。ブランケンブルクは、この「当たり前さ」の喪失が、精神病の核心にあると考えました。

3. 影響と評価

ブランケンブルクの研究は、精神医学だけでなく、哲学や心理療法の分野にも大きな影響を与えました。彼の現象学的アプローチは、患者の主観的な経験に焦点を当てることで、従来の診断基準に依らない新しい視点を提供しました。

主要著作
  • 『自明性の喪失』(Der Verlust der natürlichen Selbstverständlichkeit): この著作は、統合失調症患者が経験する「自明性」の喪失に焦点を当てています。
  • その他、彼の論文や著作は現象学的精神病理学の発展に大きく寄与しています。
経歴

ブランケンブルクは1928年に生まれ、ハイデルベルク大学で医学を学びました。彼の研究はカール・ヤスパースやルートヴィヒ・ビンスワンガーなどの影響を受けており、これらの思想を基に彼自身の現象学的アプローチを発展させました。

影響を受けた思想家
  • カール・ヤスパース (Karl Jaspers): 精神病理学と哲学を統合したアプローチで知られる。
  • ルートヴィヒ・ビンスワンガー (Ludwig Binswanger): 現象学的精神医学の先駆者。

ブランケンブルクの研究は、精神病理学における現象学的アプローチの重要性を強調し、精神医学における人間の主観的経験の理解を深めるための貴重な視点を提供しました。

このような紹介を読んでも、自然な自明性の喪失が大事らしいとまでは理解できるが、その先のことについては、そういう時代もあったんですかねえという程度だろう。

ヴォルフガング・ブランケンブルクの『自然な自明性の喪失』(Der Verlust der natürlichen Selbstverständlichkeit)における概念は、統合失調症の核心的な特徴の一つとして理解されています。この概念と統合失調症の関係について詳しく説明します。

自然な自明性の喪失とは

定義

「自然な自明性の喪失」とは、私たちが日常生活において当たり前だと感じることや、自明と感じる事柄が失われる状態を指します。この「当たり前」の感覚は、私たちが世界を理解し、他者と関わり、自己を認識するための基盤となるものです。

具体例

  • 日常の行動:例えば、私たちは道を歩く、食べる、会話するなどの日常的な行動を特に意識せずに行います。しかし、自然な自明性が失われると、これらの行動が突然、奇妙で不自然に感じられます。
  • 他者との関係:他人とのコミュニケーションや社会的なやり取りも、自然にできなくなります。話している内容が理解しにくくなり、相手の意図を読み取ることが難しくなります。
  • 自己認識:自分自身の感情や思考が分からなくなり、自己の一貫性が保てなくなります。

統合失調症との関係

統合失調症の症状

統合失調症は、思考、感情、行動に影響を及ぼす重篤な精神障害です。主な症状には以下のようなものがあります。

  • 幻覚:実際には存在しないものが見えたり、聞こえたりする。
  • 妄想:現実とは異なる信念を持ち、それに強く固執する。
  • 思考の乱れ:思考がまとまらず、話の筋が通らない。
  • 感情の平坦化:感情表現が乏しくなる。

自然な自明性の喪失と症状の関連

ブランケンブルクは、統合失調症患者の体験を研究する中で、彼らが感じる「自然な自明性の喪失」が、これらの症状の基盤にあると考えました。

  • 世界の理解の変容:統合失調症患者は、世界を一貫した方法で理解する能力を失います。これにより、現実の解釈が歪み、妄想や幻覚が生じやすくなります。
  • 社会的関係の困難:他者とのやり取りが理解できなくなるため、社会的な孤立や不適応が進行します。
  • 自己の崩壊:自分自身の感覚が失われるため、自己認識が困難になり、アイデンティティの混乱が生じます。

自然な自明性の喪失の理解と治療への応用

理解の重要性

自然な自明性の喪失を理解することで、統合失調症患者の体験に対する深い洞察が得られます。これにより、治療や支援のアプローチがより患者中心のものとなり、彼らの具体的な困難に対する対応が可能になります。

治療への応用
  • 現象学的アプローチ:患者の主観的体験を重視し、彼らが感じる世界の歪みや自己の混乱を理解するための治療法が開発されています。
  • 心理教育:患者とその家族に対して、自然な自明性の喪失がどのように統合失調症の症状に影響を与えるかを教育することで、より効果的な支援が可能になります。

ヴォルフガング・ブランケンブルクの『自然な自明性の喪失』の概念は、統合失調症患者の体験を深く理解するための重要な視点を提供しており、現代の精神病理学においても大きな影響を与え続けています。

という具合なのだが、「例えば、私たちは道を歩く、食べる、会話するなどの日常的な行動を特に意識せずに行います。しかし、自然な自明性が失われると、これらの行動が突然、奇妙で不自然に感じられます。」というあたり、メカニズムの説明になっていない。証明になっていない。ポエムの領域でしょう。

次はアルフレッド・クラウス:これまでに登場した、「哲学+精神医学」の人の中では有名度においては劣後する。著作は「躁うつ病と対人行動 :実存分析と役割分析」

この本はみすずの独特な感じのみすずらしさのある本で、懐かしい。みすず書房のサイトでは、他の本にはあれこれ紹介文があるのに、この本については「テレンバッハの後継者が、躁うつ病に至る条件や経過を、対人関係を通して理解しようと試みる。」だけ。まあ、確かにそれだけの内容で、いまさら読んでも、昔の人はこういいましたというだけなのであるが、なんだか投げやりだな、みすず。

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他にはユージン・ミンコフスキー:フランスの精神科医であり、現象学的精神病理学の発展に寄与しました。彼は、精神疾患を経験する患者の時間意識や空間意識を研究し、その独自性を明らかにしました。生きられる時間 1 現象学的・精神病理学的研究 LE TEMPS VECU などが著作ですが、みすず書房の紹介文を引用すると、

本書『生きられる時間』はミンコフスキーの代表的な著書として、また時間論の名著として、長い間、その翻訳を待たれていたものである。
1927年に『精神分裂病』を著わした著者は、分裂病者の時間と空間における特殊な存在の形態、特異な世界への入口を模索しつづけていた。ベルクソン、フッサールの影響が色濃く影を落している本書はその延長線上にある。1933年、『生きられる時間』が生まれたときは、私費で千部刷らせたという。わが国でも幻の名著となっていたが、1968年ようやく、世界的な要望のうちに再版された。ミンコフスキーは、その序文のなかで次のように述べている。
「われわれが今読者に提供する書物は、もとのテキストの再版であって、第二版(改訂版)ではない。それは余分の労苦を払うことを惜しんだからではない。他の動機があったからである。まず個人的な動機として、この労作は、言ってみればただ一つの魂をなして流れでたものであるということである。より一般的な動機としては、私は、やはり思うに、手応えのある程度には、現代思想において時代を画した、ということができると信じているからである。……この著作の特徴は、現象学的・精神病理学的研究というその副題が示している。ふたつのものは、そこで密接に結合しあっている。アンリ・ベルクソンの影響をそこに見出すことは容易である。そこでは感情的接触の観念の代わりに、それよりはもっと広い、生命的接触の観念が立てられた。……現代の精神病理学における哲学的傾向性が出て来るのは、そこからほんの一歩である。哲学的と言われるこの流れが精神病理学において明らかにした与伴は、象徴的なものではなくて『事実』であるということである。」

ユージン・ミンコフスキー
Eugène Minkowski

1885年3月17日ロシアに生れる。1909年ミュンへン大学医学部卒業。1910年にはロシアの医師国家試験にも合格、1913年妻ミンコフスカ・フランソワーズを伴ってミュンへンに戻る。(ミンコフスカは医学の研究を続け、同じく精神医学者となった。)1914年第一次大戦勃発のため、ミュンへンからチューリッヒに逃れ、ブロイラーの助手となる、1915年にはフランスに渡り、フランス軍に加わった。戦後パリのいくつかの精神病院に勤務。哲学者としても在野のまま通していた。本書のほか『精神分裂病』(1927、1953、邦訳、みすず書房、1954)『宇宙論のために』(1936)『精神病理学提要』(1966)など。

という具合。フランスの人なので、ベルグソンの影響が大きい。そしてまた、ベルクソンは本人は自然科学も人文系も理解していたようだが、後世の我々からすると、解釈が難しい部分もないではない。そんなベルクソンと現象学と精神医学の接ぎ木なので、現代から見れば、文学作品と言ったほうがいいのかもしれないし、この辺りになるとフランス語自体が難しい。

ウジェーヌ・ミンコフスキー (Eugène Minkowski) は、フランスの精神科医および現象学的精神病理学者であり、彼の最も重要な概念の一つとして「生きられる時間 (Le Temps Vécu)」があります。この概念は、精神疾患、とりわけ統合失調症における時間の体験の異常性を理解するための鍵となるものです。

概要
「生きられる時間」の定義
「生きられる時間」は、主観的に体験される時間の感覚を指します。これは、時計やカレンダーによって計測される客観的な時間とは異なり、個人の内的な体験によって形作られるものです。

主観的時間の特性
流動性:生きられる時間は流れるように感じられ、過去、現在、未来が連続している感覚を伴います。
意義付け:個々の出来事や経験は、この流動的な時間の中で意味を持ちます。出来事は過去の経験や未来の期待と関連付けられます。
連続性:健康な人は、自分の過去、現在、未来が連続しており、自己の一貫性を感じます。
統合失調症との関係
ミンコフスキーは、統合失調症患者の時間の体験が「生きられる時間」の異常を示していると考えました。

統合失調症における時間の体験の変容
断絶感:統合失調症患者は、時間の連続性を感じにくくなり、過去、現在、未来が分断されているように感じることがあります。
現在の支配:過去や未来の意義が薄れ、現在の瞬間が支配的になることがあります。これにより、出来事や行動が一貫性を欠くようになります。
自己の崩壊:時間の連続性が失われることで、自己の一貫性やアイデンティティが崩壊しやすくなります。
ミンコフスキーのアプローチ
ミンコフスキーは、統合失調症患者の治療において、彼らの「生きられる時間」の回復を重要視しました。彼は、患者が再び時間の連続性を感じ、自分自身や世界との一貫した関係を再構築する手助けを目指しました。

影響と評価
精神病理学への貢献
ミンコフスキーの「生きられる時間」の概念は、現象学的精神病理学における重要な貢献の一つです。彼の研究は、統合失調症患者の主観的な体験を理解するための新しい視点を提供し、治療や支援の方法にも影響を与えました。

哲学との関連
ミンコフスキーのアプローチは、エドムント・フッサールやマルティン・ハイデッガーなどの現象学的哲学者の影響を受けており、彼らの時間の哲学と深く関連しています。特に、ハイデッガーの「存在と時間」における時間の分析は、ミンコフスキーの考えに大きな影響を与えました。

主要著作
『生きられる時間』(Le Temps Vécu): この著作で、ミンコフスキーは統合失調症患者の時間の体験を詳細に分析し、時間の連続性や断絶感に関する議論を展開しました。
まとめ
ウジェーヌ・ミンコフスキーの「生きられる時間」の概念は、統合失調症を含む精神疾患の主観的な時間の体験を理解するための重要な視点を提供しています。彼の研究は、現象学的精神病理学において時間の体験の異常性を明らかにし、患者の治療における新たなアプローチを提案しました。

自分としては昔はこういうものにも興味があったのだから愚かな限りである。
真実の探求として存在しているのではなく、アカデミーの事情とか出版社の事情で存在しているだけだ。

何度も断っておくが、おそらく、私にはよく真価が理解できないから、これらの「哲学+精神医学」を価値がないと言っているだけであって、正確には、一読しただけでは、私には価値がよくわからない、それ以前に、字面ではなく、本当に深いところで、何を言いたいのか、何がもともとの良い思い付きなのか理解できない、そんなにいい思い付きがあるわけでもないなあと思う。

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構造主義、ポスト構造主義とジャック・ラカンも有名である。

社会構築主義と精神病も話題にはなり、縦書き日本語論文が出てくる。精神疾患は社会的に構築された存在者であり、それゆえに精神疾患は実在しないと説明される。

上のような考えも、哲学や思想と精神医学の結合の一例であろう。

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さらに日本でも、独自の哲学や宗教と結合した形の精神医学もあり、たとえば森田療法とかがある。調べてみると以下のようになる。
日本の哲学・宗教と精神医学が結びついた治療法やアプローチは、森田療法の他にもいくつか存在します。これらのアプローチは、東洋思想や宗教的な考え方を取り入れることで、患者の心身のバランスを回復することを目指しています。以下にいくつかの代表的な方法を紹介します。

1. 内観療法

概要

内観療法は、吉本伊信によって開発された自己反省の技法で、禅の影響を受けています。患者が自分の過去の行動や感情を振り返り、他者との関係性を再評価することで、自己理解を深め、心の平安を取り戻すことを目的としています。

手法

内観療法は、特定の質問に対して集中的に考えることを通じて行われます。主な質問は以下の3つです。

  1. 「私は何をしてもらったか?」
  2. 「私は何を返したか?」
  3. 「私は何を迷惑かけたか?」

2. 座禅療法

概要

座禅療法は、仏教の座禅の実践を精神療法に取り入れたものです。座禅を通じて心を静め、自己の内面と向き合うことで、精神的な安定を図ります。これは特に、不安やストレス、うつ病の治療に効果があるとされています。

手法

座禅は、静かな環境で一定時間座り、呼吸に集中することで行われます。心を「無」にすることを目指し、雑念を取り除く練習をします。

3. 芸術療法(アートセラピー)

概要

日本の伝統的な芸術や文化を取り入れた治療法も存在します。書道、茶道、花道(いけばな)などの芸術活動を通じて、心の癒しと自己表現を促進します。これらの活動は、禅や儒教の影響を受けた日本の文化に根ざしています。

手法

芸術療法は、患者が書道や茶道、いけばななどの芸術活動に参加することで行われます。これにより、自己表現や創造性を通じて、内面の感情やストレスを解放します。

4. 神道療法

概要

神道の儀式や祈りを用いた治療法も存在します。神道は日本固有の宗教であり、自然や祖先を崇拝することを重視します。神道の儀式を通じて、心の浄化やバランスの回復を図ります。

手法

神道療法では、神社での参拝や祈祷、禊(みそぎ)と呼ばれる浄化儀式を行います。これにより、精神的な浄化やリラックスを促します。

5. アニミズム療法

概要

日本のアニミズム的な信仰(万物に霊が宿るとする信仰)を取り入れた治療法です。自然とのつながりを深め、自然のエネルギーを利用して心身のバランスを整えます。

手法

アニミズム療法では、自然の中でのリトリートや森林浴、自然物を用いた瞑想などが行われます。これにより、自然との一体感を感じ、心身の癒しを図ります。

これらの療法は、日本の伝統的な哲学や宗教の考え方を取り入れることで、患者の精神的な健康をサポートするための方法として発展してきました。

実質は森田療法と内観療法くらいなんですかね。有名なのは。それにしても、何かの思想とかとくっつけたがるんですね。禅とか。

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総じて、他分野にも方法論として影響を与えたのはフロイトである。マルクスやマックス・ウェーバーなどと一緒に、「これらの人の思想に対してあなたはどのように考えているか、それであなたの現在位置を測定することができる」そのような思想家としてフロイトが挙げられている。まあ、ダーウィンとかアインシュタインとか色々いるのだろうけれども、一般庶民にも分かりやすい思想的影響という意味で、言っているのだろう。

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